迷いを越えていく
ジャッジメント
審判を下す。判断、判定する。
判断
1 物事の真偽・善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること。
2 吉凶を見分けること。占い。「姓名判断」
3 《judgment/〈ドイツ〉Urteil》論理学で、ある対象について何事かを断定する思考作用。また、その言語表現。
人は、絶えず、選択をし判断を下している。
物事を進めるために。
ある一定のルーティンの中で。
それは、スムーズであり、ある種の平和であり、効率的だ。
自分で選択したものもあれば、
与えられた解釈も存在する。
いや、それも自分が選択したものだ。
例えば、世に溢れている占いやタイプ分けなども、
安定材料のひとつかもしれない。
無論、そのような解釈や判断に助けられることも、往々にしてある。
ただ、そこに留まり続けると、
人や物事を多方向から捉えることが難しくなる。
と、わたしは思う。
例えば、「今日は人の嘘に振り回されやすい1日になるでしょう」と言われたら。
それで、どんな1日を過ごすのだろう?
人に対して1日中疑心暗鬼で過ごすのだろうか?
それとも、今日は落ち着いて確認しながら過ごそう、と自分の行動を見つめるのか?
与えられた解釈から取る行動を、自分の選択だとせずに、過ごすとしたら…
その人自身は、いったいどこへいくのだろう?
ひとつの見方でジャッジし物事を捉え、時に、自分で作った枠を自分へも人へも押しつける。
いったい、なんのために?
その一方で、一旦、自分が選択をしたものに、いつまでも「迷い」を持っていると言うことは、選択したことに責任を持っていないのだ。
色んな可能性を考えることは、次の一手を生む。
それでも、だ。
果たして、この選択は、
これでよかったのだろうか。
誰かを傷つけていないだろうか。
もっとできたのではないのか。
なにかを選んだとき
上手くいこうが転けようが、ことの大小に関わらず、こんな風に感じてしまうことがある。
けっして、完璧主義ではないのだが、
とことんやったと一瞬思えても、
ほかの可能性があったのではないだろうか、
などと、考えてしまう。
いったい、なんのために?
迷いを越えていくことは、
とてもこわい。
フィルターをかけてみたり、判断に揺らいでみたり。それ自体は人ならば当然のことだ。
ただ、そこに固執するのは、
どちらも、“わたし”がラクになりたいからだ。
ー言い訳を常に用意しているー
いっさいの後悔のないように、なんてどだい無茶な話だ。
であるならば。
「こうだろう」も「もしかしたらこうかもしれない」も、一旦脇において、解釈も判断も一旦追いやって。
実際に起こっている出来事、
目の前にいるその人、
客観的な事実、
心にその瞬間起こった感情、
ーただそこにあるー
解釈も判断も、その後だ。
やっぱりと同じ解釈をするのか、
あら?こんなところもあるのね、こんな考え方もあるのね、などとするのか。
判断と迷いと
それは、さも矛盾しているかもしれないが、
“ただそこにあるもの”の前では、
それ以前のものとは別の解釈が生まれるかもしれない。
後悔や失敗のない、人生があるだろうか?
間違いは正すことができるが、決めていないことは手放すこともできない。
「彼は○○だから」「わたしは△△だから」もよいが、それだけではとても窮屈だ。
自分の“直観”は、大事にして
しなやかに軽やかに逞しく、
迷いを越えていく。
古い価値観や枠組みを破壊して、新たな世界の中で普遍的な価値観、理想を創造していく。
変わることは、これまでの自分を否定するものではない。自分で自分を超えていくのだ。
わたしの可能性は、わたしが創る。
わたしはわたしのやり方で生きていくのだから。
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