【解像度】かいぞうど
どのくらい細かい部分まで記録・再生できるかの能力を示す値。音声でも、映像でも、信号の質を測る極めて重要な尺度。記録できる周波数のレンジ(幅)が広ければ広いほど、解像度が高くなる。
先日友人から、面白いことを言われた。
わたしは、解像度が高い、のだそうだ。
たらればさん曰く、
「(誰かにとっての)何気ない朝」を「(自分にとっての)特別なワンシーン」に切り取って描写するためには、3種類の力が必要なんだとおもうのです。
- 「知る力」絶対的な知識量
- 「紐づけて使う力」情報に関連性を持たせどこで使うか
- 「祝福する力」この世界を見る視線
わたしにそんな力があるとは、到底思えないのだが、その友人を含めて、先日こんな会話をした。
その場にいた人たちは、ドラマをよく見ている人たちで。要は、日常にないドラマチックさへの感覚をドラマを観ることで満たしているとのことだったのだが。
一方で、わたしはドラマはほとんど見ない。
いや、ドラマ以前にテレビもほぼ見ない。
何故って、日常にいくらでもドラマがあると思っているからだろう。
朝、雨に烟っていく街を窓の外に眺めていると、
ふとベランダの桟に雨粒が溜まり、
やがて耐えられなくなって、
雫がぽたんと落ちる。
そのうちに、強く降り出した雨に、街行く人たちが色とりどりの傘をさしはじめる。
“あゝ、なんてやさしい綺麗”
玄関を出るときに、自分で傘を持って出たのだろうか。それとも誰かに傘を渡されたのだろうか。
“あゝ、いまどんな気分でいるのだろうか”
家々の樹々の葉たちが、我れ先にと露を愉しみはじめる。
“あゝ、キラキラとしてなんて美しいのだろう”
そう言えば、今ごろあの人は起きだした頃だろうか。雨音に気づいているだろうか。
この雨があの人を潤すものであるといい。
やわらかな1日のはじまりになるといい。
そんなことをうつらうつらと考えていたら、
いつの間にやら、泣いていることに気がつく。
そうしていると、
涙は哀しみのみで浮かぶものではない
ことに、思い至る。
なぜ、わたしは泣いているのだろう。
思い馳せる思い出があることに、いま、雨が降っていることの甘さに震えているのだ。
世界の美しさに安堵して泣いているのだ。
などと、わたしは思うのだが。
「雨粒にドラマチックさなど感じない」と
言われてしまった。
そして、それもまたよいのだ。
そうでなきゃ、
わたしのような人だけで世の中ができていたら、
それこそ涙の洪水が起こる。
感覚が裸で歩いているようなものだ。
そりゃあ大変だ。
そして彼らも、わたしのようにはしないだろう。
むしろ「あら、大変ねえ」などと苦笑いするくらいだ。
ドラマという非日常の中で、
感覚の解像度を研ぐのもよし。
日常に余白を与え、
何を美しいと思うのかを味わうもよし。
さて、冒頭の
「知る力」絶対的な知識量
「紐づけて使う力」情報に関連性を持たせどこで使うか
「祝福する力」この世界を見る視線
これについては、
ひとつひとつ書こう、と思う。
ゆっくりと日常の美しさを食みながら。
これこそ、わたしにとってのSENSE OF BELONGING つながりの感覚だから。
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