唐突ですが、スピリチュアルやスピリチュアリティと聞くと、人は何を想像するのでしょうか。
日本で使われている「スピリチュアル」というカタカナ語。
占いやら、霊やら、宗教やら、なんだかよく分からない異次元のもの、
だと感じる方もいるのでしょう。
「能力があれば見えるもの」みたいな。
大雑把にくくると「神秘性」みたいな。
わたしは、「神秘性」であり「精神性」であるのだと思っています。
どちらか、一方ではない。
たとえば。
人間の創造した文明の届かない地域で、「見えないものが見える人」が、尊重されていたりする。
わたしはそのチカラを、特別なものだとは思わないのです。と言うと、ある種の誤解を生みそうですが。
人智の及ばない自然の力に逆らわず、共存し、時に泣き笑い、喜び怒り、自らもその中の一部であると認識できたとしたら。
全部向かってくるし、全部向き合うとしたら。
人としての生き抜くチカラが試される環境が、
当たり前だとしたら。
それは至極真っ当なことだと思うのです。
情報や文明は、人の生活を便利にし、快適にし、潤しています。現に、わたしもこの文明の力によって、世界のどこでも行かれるし、この文章だって書けている。
ただ、思うのです。
その、「見えないものを見るチカラ」は、
どんな環境であれ、誰であれ、持つことができるものだと。
人の優しさに涙することがあるでしょう?
見知らぬ誰かの行いに心が軽くなることがあるでしょう?
大切な人のために言葉を紡ぐことがあるでしょう?
行ったことのない場所なのに、何故だか懐かしく感じる場所があるでしょう?
たまたま立ち読みした本の中に、妙に惹かれる一節があったりするでしょう?
なんだか、よく分からないけれど、
ふとした衝動に目尻を濡らすことがあるでしょう?
なんだか照れ臭く普段は感じないように蓋をしている思いがあるでしょう?
わたしはそれこそが、
「本当はそこにあるのに、見えなくなってしまった、感じなくなってしまった。」ものを
見せるチカラなのだと思っています。
普段は、心のもっとも奥深くに眠っているけれど、確かにあるもの。
スピリチュアリティとは、
「なんだかよくわからないけれど、人の心のもっとも深層にある、善良さ美しさと素朴さと、
そこにあるチカラについての」
という、神秘性と精神性のないまぜになった、
ヒトの持つ、生きるチカラなのだと、思っています。
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