プロフェッショナルの流儀


少し前のこと、おじが死んだ。


彼は、ほんとにどうしようもない放蕩者で、
頑固で、わがままだった。


親戚中に迷惑をかけ、その度合いは、
あまり付き合いのないわたしも引くくらいで、
子ども心に、大人になるとこんな人と付き合っていかなきゃいけないんだろうか、、、
と、憂鬱になるくらい。


そんな、どうしようもない人だったのだけれど。


彼は中華の出張料理人で(まあ放蕩料理人の方がしっくりくる)、彼の作る料理はなんとも美味いのだ。



ピータンもフカヒレも燕の巣も、
炒飯も青菜炒めもスープも中華ちまきも、
彼の作るご飯は、家庭料理から本格的なものまで、なんでも美味しかった。


遊びに行くと、彼は10才の子どもに食べさせるために食材探しに行き、

母や祖母には絶対に手伝わせず、飾り切りまでして、

全部を一度に食卓に並べるのではなく、食べ終えるタイミングで、熱々の皿が出てくる。




たとえ特別な食材がなくても、冷蔵庫にあるもので、
あっという間に美味しいものを作ってしまう彼の手は魔法使いのようだった。


そして、食べているわたしたちをずっと見ている。
ご飯を作りながらも、ずーっと見ている。
満足しているのか、足りないのか、
味はちょうどよかったのか、足りないのか、
好きなのか嫌いなのか。


そして、たいていの時間はだらだらと、
そこにいるのかいないのか分からないくらいに腑抜けているのに、
料理をしている間だけは、水を得た魚のように生き生きと楽しそうにしていた。



何かひとつのことを成し遂げるためには、
いったい何が必要なのだろうか。


思うに、まずはひたすら「やってみる」「繰り返してみる」こと。

自分の感覚を手に入れること。



そうするうちに、自分なりの判断基準ができる。


次に、知識や情報を手にする。
自身が感覚として捉えていたものが、理屈としても理解できるようになる。


自分の「基準」を持たないうちに、知識や情報を入れてしまうと、
常に「頭」でそのことを捉えるようになってしまう。


〇〇だからよい、△△だからダメ、資格があるからよい、有名だからよい、

著名な〇〇さんが言っていたから正しい、などと、思い込む。



あやふやな情報や知識を仕入れてきて、
さもこれが正しいだの、これはこうあるべきだ、などと蘊蓄を語りだす。


もちろん、学ぶことは素晴らしいことだ。


同時にそれらを手放せることも、
一度手にしたものから自由でいることも、
その道を歩く上で重要なことに思う。


やらなければゆうことがまだ残っとるんですよ。
やり続けること、立ち続けること。


これは、某番組に出られていた福島和彦(クロマグロ養殖家)さんの言葉だけれど。



プロフェッショナルとして生きている人たちには、それぞれの矜持がある。
どんな仕事であれ、その仕事とその人が掛け合わされて、その人だけの矜持が生まれる。


どんな人であれ、その人生とその人だけの生き方があるように。


何かを成し遂げる人には、自分の人生を生ききるという、
“この自分で生きる”という覚悟がある。


まずは、自分自身に対して
プロフェッショナルでいようじゃないか。


相変わらず周りに迷惑ばかりかけてるだろうおじに会うことがあれば、

彼の思いを聞いてみたいものだ。


日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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