理論や数値、考察し秩序立てるような、
測ってしかるべきもの。
それなしに、世の中は成り立たないだろう。
わたしの場合は、
先に感覚があって、
理論や考察は、後発の意味づけや理論付け、意図の確かさの検証に用いるのだが。
人は、測られたものを追い求める。
なぜって、
「安心」だから。
説明できるから、納得したいから、肯定したいから…
理由は様々であろうが、
測れるものはある時は、脳に休息を与える。
考え続ける必要がない、と言う意味において。
むろん、測ることができる、と言うことは、
大切だ。
でなければ、世の中は混沌とし、混乱して無秩序を生むだろう。
この世の中の平和は、測れるものが作っているのかもしれない。
その、一方で。
人をヒトたらしめているのは、
測れないものだと思う。
いくら、同じ格好や化粧をしていたところで、
その人らしさ、と言うのは、
見えてくる。
濃淡に関わらず。
その人が内側に抱えているものが、
膜となって現れる。
その時、心に抱えているものと言うよりは、
彼等がこれまでどんな時間を過ごしてきたのか、
何を大切に生きてきたのか、
誰に憧れてきたのか、
どんなことに傷を負ってきたのか。
何を内側に飼っているのか、そんなものが透けるのだ。
そして、その人のヒダのようなものは、
測定できるものではない。
測定できるものではないので、
一概にこう言うものだとも言えない。
測れるものでは、説明のつかないもの。
そこにその人の持つ「デザイン」があるのだと思う。
そのヒダを重ねていくことが、
美しさだと思う。
一緒に寝ていた、大きなくまの縫いぐるみ。
黄色い長靴で遊んだ水たまりと、繋いだ母の手。
祖父に肩車されて見た花火と、握りしめた綿菓子。
放課後のはじめてのキスと、漂ってきた金木犀。
家を出るときの、滲んだ目の父の顔。
露に濡れた道端の花にしばし見惚れ。
行き交う名も知らぬ人とすれ違うスクランブル交差点。
高層ビルとわたしの身体を抜けていった光と風。
口惜しくて、情けなくて、強く噛んだ唇の味。
待ち合わせの駅ビルで大好きな人を待つ時間。
人の持つ美意識とは、
測定できないものを自身の内側に飼うようなもの。
その人の「美意識と言う名のデザイン」を作るということは、
測れるものを縦糸に
測れないものを横糸に
織っていく。
そんなことの繰り返しなんだと思う。
それが、その人をその人たらしめているもの、
それが、その人の膜となるもの、
なんだと思う。
0コメント