ヨルダンのホテルにて
遊牧民族に憧れがある。
(小学校の国語の教科書に載っていた『スーホーの白い馬』が大好きだ)
本を読みはじめると没頭しすぎてしまうので、
途中で降りなきゃいけない電車に乗る時は
短編集とかエッセイにしている。
『旅ドロップ』江國香織著
この中の「平安時代の旅」という文章の、
平安時代の人々の旅の仕方に触れられているところ。
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いい景色を眺める、ということへの彼らの憧憬と情熱と偏愛ぶりは、ただごとではない。
(中略)
日常生活のなかでも、何より景色に心をふるわせ、
桜が散ってしまっただけで大泣きしたりする。
刹那的な人々なのだ、シュールなまでに“いま”を生きている。
(中略)
おもしろいのは、家や土地やお墓には執着を持たなかったらしいことで、季節同様、移ろうことが基本の、人生そのものが旅みたいな人たちなのだ。ファンキーでグルーヴィーだ。
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とあって。
ああ、と憧憬や共感のため息をつく。
イスタンブールのホテルから
人間と自然が乖離し続ける世の中で、
五感に触れ、日々の中に、自身の琴線をふるわせながら生きることが稀になってしまった。
少し前にNHK「日曜美術館」で、
霧の彫刻家・中谷芙二子さんの特集がやっていた。
「自然と人間の間の信頼関係を取り戻したい」
中谷さんは霧の彫刻をつくる動機についてこのように語っています。
「霧神楽」大地の芸術祭
レアンドロ・エルリッヒ作「Palimpsest: 空の池」に浮かぶ
人間が自然と共に生きていた時代には、
当たり前のように共にあったのだろうと思う。
(技術の発展や科学の進歩はわたしにも素晴らしい恩恵を与えてくれている。然し乍ら、自然を操ろうとしたり、古来の生活をしている民族を“こちら側”へ取り込もうとする、この世界の頂点に資本主義人間がいるかのように錯覚した所業は、なんなのだろうか。)
中谷さんの作品に限らず、アートとは、
とても自然的なものに思う、
それがどんな形をしていようとも。
街中にあろうが、美術館にあろうが、
強弱はあろうが、何かこちら側が見えなくなったもの、
見失ったもの、見えていなものを差し出している。
わたしをうつろわせ、揺さぶってくれる。
その瞬間、そこにはアートとわたししか存在しない。
アマルフィのホテルにて
旅も同様に。
ふと、
三好達治の『烟子霞子』の詩が浮かぶ。
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壁には新らしい繪を掲げ
甕には新らしい花を挿し
窗(窓)には新らしい鳥籠を吊るした
これでいい さあこれでいいではないか
今日一日私はここにおちつかう
今日一日?
ここはお前の住居ではないか
私の心よ
お前の棲り木(とまりぎ)を愛するがいい
お前の小鳥と同じやうに
そこでお前も歌ふがいいーー
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家について書いているようで、
その場所は持ち主を持たず、
その日その時にたまたま受け入れた人を指しているように見える。
わたしは、『家』はそんな場所であって欲しい。
「家」としているもののみならず、
旅先のホテルや、アートの前に陣取ったとき。
己の中から湧く、強烈な感情に腹をくくれる。
渇望とか絶望とか拒絶とか諦めとか、
ともすれば、負のレッテルを貼られてしまうようなものにも。
ファンキーでグルーヴィーな、
その瞬間に偏愛すべき孤独に浸かれる器のような。
そんな場所は、いつもわたしを自由にしてくれる。
アマゾン川で船を漕ぐ
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