信じるということ


I knew nothing, but I believed a lot.
Moominpappa
私は何も知らなかった。しかし私はたくさん信じた。


ひとり旅に出るというと、おおかた心配される。


わたしが向かう先が、メジャーな場所じゃないからかもしれないし、“ひとり旅は危険”という固定観念からかもしれないし、単にわたしが頼りないからかもしれない。


ビザとか気候とか最低限のものは調べるものの、ガイドブックとかはあんまり読まない。


そう、ひとり旅の場合、「せっかくだから」とかいう気持ちがあまり発動しないのだ。


モロッコに行った時は、青い街にある、とある「扉」が見たかったのと、サハラ砂漠でキャンプしたかったからだし、トルコは「グリという名の猫」に会いたかったからで、イスラエルへ行った時は、とある「砂浜」へ行ければそれでよかったのだ。


(短期間のしかも誰かと一緒に行く時の方が、「ちゃんと」準備するかもしれない。それこそ、「せっかくだから」とか、効率とか、考えて。)


ガイドブックという「情報」にばかり捉われていると、

なんというか、家でテレビを観ているみたいになってしまうのだ。切り取られた場所を遠巻きに眺めているような。行ってもないのに行った気になったような。


アフリカや中東あたりを旅すると言うと、
危険だからどうとか、こんな話を聞いたからとか、
ああでもないこうでもないと、行ったこと無い人からやたらアドバイスされる。


ありがたいことと聞くには聞くが、
だいたい聞き流している。


そう言ったアドバイスや情報という「枠」で
やりたいとか行きたいとかを閉じ込めてしまうのは、とてももったいないと思うのだ。


もしかすると、有名な絶景や評判のレストランや観光地とかを見逃しているかもしれないし、少しばかり緊張する場面に遭遇するかもしれない。


けれど、わたしが見たいのは、
そこに住まう人であり、
そこに生きているものものなのだ。



人には本来、良いもの、邪なものを察知して選り分ける能力がある。(俗に言うごく一部の人だけが持つ特殊なスピリチュアルな能力とかそういう事ではない。とは言え、このスピリチュアルとは言葉にするとやっかいなもので、途端に胡散臭くなる。本当は誰しもが持つ生きるチカラなだけなのに。)


なんとかなることと、なんともならないことを“知っている”はずなのだ。


Google mapなど何の意味もない場所に行くと、それがよく分かる。


「知らないこと」は自分ひとりでは、なんともならない。頼れるのは「知らない」を認める自分の心と、目の前にいる人の心だ。



似たようなことは、日常でも起こる。


  • “親切”なアドバイス。
  • 多数派という名の“正義”
  • 知らないこと。
  • 予想もつかないこと。
  • 迷うこと。
  • 答えのないこと。
  • せっかくだからとかの選択をあやふやにするもの。


そんな時、何を信じるのか。


「知らない」を認める自分の心と、目の前にいる人の心、そして、自身の直観。

どれだけ、そこに心を開けるかだ。



偏った情報が知らぬ間に自分の常識や枠をつくりあげる。増えることで見えなくなるものがある一方、ものが減ると見えてくるものがある。


それはあなたにとって本当に大切なもの。


無論、見えてくるものは心地よいものばかりではないかもしれないけれど。
そこには、あなたの人生の本質がある。


自分の人生、
自分の正解ぐらい自分で決めましょ。

日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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