少し前のことになりますが、
とあるテーマのワークショップへ参加した時のこと。
それをきっかけに、
違和感のようなものを抱えていた。
テーマはウェルビーイング。
「ウェルビーイング」(well-being)とは、
身体的・精神的・社会的に良好な状態にあることを意味する概念で、
「幸福」と翻訳されることも多い。
世界保健機関(WHO)憲章の前文では、
「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあることをいいます(日本WHO協会)」
とされている。
いわんや、幸福、しあわせである、
ということは、よいことだ。
しあわせとは一体何なのだろう?
何をもってしあわせとするかは、
人それぞれであろう。
ウェルビーイングに関する調査として有名なものの一つが、
アメリカのギャラップ社の調査である。
140を超える国や地域で行われる幸福度についての大規模な調査で、
その調査軸は「体験」と「評価」の二つからなり、
体験は、
五つのポジティブ体験(よく眠れた/敬意を持って接された/笑った/学び、興味/歓び)と、
五つのネガティブ体験(体の痛み/心配/悲しい/ストレス/怒り)をしたかどうか
となっている。
(評価は自分の人生に対する自己評価を10段階で聞くもの)
この調査は世界幸福度ランキングでも活用されている。
世界幸福度ランキングは、国連の持続的な開発ソリューションネットワーク(SDSN)が
発表する調査で、ギャラップ社のデータのうち「評価」の項目を指標として使っている。
国際幸福デーである2020年3月20日に発表された調査では、
1位がフィンランド。日本は62位)
違和感はここにあった。
《ウェルビーイング/幸福、しあわせ》と言うような(これに限った話ではなく)
一見、“尊くわかりやすい言葉”が持つ独特の「正義」感のようなものと、
相反するようなもの(建設的な話し合いすら)を
受け入れない空気感だ。
ランキングや評価というものはわかりやすいし、しあわせというのも、
「よいこと」ではある。
但し、このわかりやすさや、よいこと、と言うのは、時に思考停止を生むものでもある。
ランキングが低い=ランキングを上げなければ、ではないだろうし、
ネガティブな感情や体験=しあわせではない、ということでもないのではないか?
(いやいや、ランキングが高い方がいいに決まってる、とか、負の体験や感情なんてない方がいいに決まってる、とか、言う人もいるでしょう。それはそれだし、それを否定するつもりもない。ただ、なぜあなたはそう思うのか?とは、聞いてみたい。)
唐突ですが、「愛」の反意語はなんだと思いますか?
諸説あるようですが、愛の反意語は「正義」と言われている。
正義とは、「こちらは正しい、相手は悪い、など区別・分離し、相手を駆逐する行為」
世の中の、争いの根源であるとも言える。
「正義」に生きるヒーローは、彼らにとって守りたい人や物事を守っている。
決して誰でもいいわけじゃない。
そして、彼らが守ろうとするその理由が、
誰かへの愛情や友情などの場合、
人はそれを正しいことのように錯覚する。
一見、美しいこと、よいこと、に見えるものは、
尊く見えるからだろうか?
なんの疑いもなく、すんなりと人々に受け入れられる。
そこには自分の内側などなく、自分の正しさなんて実はそんなに必要ではないと言う、
自分の真実から目を逸らすのだ。
わたしたちはこれまで、
感情を扱うことをそこまで重視していなかった。
知識や“常識的に”どうすべきかや是非は
習い問われるけれど、
今の感情がどうか?それをどう感じるか?を問われることはほとんどなく、
むしろ、負の感情とは悪いものとして排除されてきた。
結果として、多くの人は、自分の感情に気づかず、
負の感情や違和感を無意識下に追いやってしまい、
無意識のうちに、世の中でよしとされるもの、よいとされるものに同意、同調する。
はて、負の感情や不快な身体感覚は、
そもそも生きているという生命そのものや
自身の真実ではないのか。
あらゆる感情や感覚を体験することができる、
それを意識することができるのならば、
それは素晴らしいことではないのだろうか。
自身の真実に、周囲に惑わされることなく気づくことができるならば、
それはウェルビーイングな状態であると言えるのではないだろうか。
ウェルビーイング=“より良く”ある=ポジティブである
よりも、
わたしには、
ウェルビーイング=この人生をよく(はなはだとか、たいそうとか、じゅうぶんに、の方)生ききる。
がしっくりくるのだ。
(とは言え、広く大衆に届けるためには、“わかりやすさ”や“共感”が必要なことは重々承知だ。)
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