愛のために調和を失うことは
調和のある生き方の一部
「eat play love 食べて 祈って 恋をして」
バリアンのクトゥがリズへ贈った言葉
ここのところ「わたし」というものを考えている。
子どもの頃、わたしは「無駄に大人びた子ども」だった。
父の母への暴言を止めるため「良い子」でいることを常に選択していた。
それ故に、「良い子ちゃん」だからという理由で、
いじめられたこともあったけれど、
その出来事を未だ親には言えずにいる。
心理学やコーチングなどをされている方は分かると思うが、"子どもの頃の自分になる" ワークなんぞがあるが、わたしはどうしても、これができない。
単に楽しかったことはどんなことか、とかは問題ないのだが、その頃の自分になるのには、
emergency call が 鳴る。
そして、曲がりなりにも、「自分へ帰還する」ことをタイトルにしてセッションを提供している身として、できない自分をずっと赦せないでいた。
先日も、そんなワークを受けてきたのだが、
やっとくっきり、したことがある。
手放すべき、と思っているわたしごと、わたしなのだと。
蓋を外す、ようは、どんなワークを受けても大丈夫になる、平気になる、乗り越えている、ことこそが、手放すことだと思っていたのだが、
「わたし」は、蓋をしたいのだ。
蓋を外すことが手放すことではない、のだと。
いつもは、無理矢理ワークを受けて誤魔化しているのだが、何となくそれをやめてみた。
踠いているわたしごと、
子どもの頃に戻ろうとすると、きゅうう、っとしてしまうわたしごと、わたしなのだ。
葛藤を抱えた子どもの頃を抱えているのが、わたしなのだ。
何のために「大人びた子ども」を選択していたのか。
単に、わたしは「愛」を選択していただけではないか。
わたしに必要だったのは、赦す「べき」、手放す「べき」という、自分の囚われだったのだ。
誰かの言う「正しさ」に合わせようとしていないか。
調和をいっとき失ったとして、それがいったいなんだと言うのだろう。
「わたし」は失われない。
愛のために、もがき苦しみ、自分ではどうしようもなくなったり、じぶんを理解できなかったり。
それでいい。
それがわたしを抱えて生きていくということだ。
それがよいと思うのだ。
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