どちらか片方に確定した正しさがある訳ではない。
世の中には、表と裏があり、善悪があり、有ると無いがあり、どちらか一方に正しさがあるように見せられています。
それもまた必要な摂理でもある。
秤=ジャッジ そこにはそれぞれの正義や正しさがあるでしょう。
圧倒的な数字や、考察され理論づけされた法則、規則正しさが生む効率、精巧に計算されたもの。
そこにある「安心」「納得」「明瞭さ」「スピード」
ー余白の持つ心地よさー
ですが、いくら秤にかけても「片方にある正しさ」では測れないものがあるとわたしは思います。
それは、人の感性や感覚、直感、可能性、片方の正しさから影響を受け新たに発見されたもの。
余白が生む、予期せぬものがもたらすチカラ。
説明のつかないものが持つ感動。
わたしたちの使う日本語には、あいまいな言葉がたくさんあって、
そこには曖昧さという余白があるからこその美しさがある。
うっかり、えも言われぬ、琴線に触れる、ときめく、なんとなく、ハッとする…
そこには測れない無限の広がりがある。
ー世界はつながっているー
測れるものの静謐さと、測れないものの圧倒
別々に存在しているわけではなく、
そのどちらもが、双方へ影響している。
わたしは無宗教ですが、大好きな場所のひとつ、バリ島で生まれたバリ・ヒンドゥーの教えは、「すべての物事は善と悪、生と死といった形で必ず相反し、それらのバランスが維持され共存することで世界が成り立つ」とされています。
どちらも混じり合っている。
見えているもの、測れるもの、説明できるもの、慣習や環境で覆われたジャッジに自らの真実が奪われていやしないか?
感覚に頼りすぎて、現実を置き去りにしていることはないか?
そんな時は、少し目を閉じて、自分の秤を見つめてみてはいかがでしょうか。
秤に余分なものまで載せていないか?
秤は実は空っぽなんじゃないのか?
そもそも、秤に載せる必要があるのか?
ジャッジを超えた先にあなたの真実があるかもしれません。
まっすぐ、自分と世界への尊厳を大切にして。
0コメント