人がこころを動かされるとき、と言うのは、いったいどんな時だろうかと、ふと考えてみる。
感情というのも様々なので、一概には言えないとは思うけれど、わたしがここで言うのは、ふとした瞬間に"スン"とさせられる、感情のこと。
あたまの理解が追いつく前に、キュッと心臓を掴まれたような、目の奥がじんわり沁みてくるような、鼻の中の粘膜がつままれるような、なんとも言えない、あの瞬間。
先日京都で行われている「京都国際写真祭」で訪れた、-深瀬昌久 遊戯- にて。
写真家 深瀬昌久にとっての「鴉」は、わたしにとっての「猫」かもしれない。
猫がわたしの人生に最初に登場したのは、小学生の時。
嵐の夜、独り留守番をしていて、
ふととなりの家の蔵の屋根の上に目をやると、
そこには猫がいて。
その瞬間、蔵の横の木に雷が落ちた。
耳を劈くような猫の叫び声。
もしかしたら、猫は屋根の上にはいなかったかもしれない。
それでも、嵐と猫は、わたしの中に一緒くたにある。
いまも夜中に、猫の声を聞くと、わたしの瞼の裏に、雷が光る。
そして、気づかぬ間に、"すん"と言う、ポケットに落ちているのだ。
次に猫が登場するのは、つい10年くらい前。
当時の旦那が猫を飼っていた。
この猫が、また、たいそう不思議な子で、
元旦那は飲みに出かけて行くと、まぁ、とことん飲む人だったのだが、普通に帰ってくるときには、鳴かない。
ところが、道端で酔いどれている時など、ほおっておくとマズイ、と言う時にだけ、
わたしが起きるまで、鳴いたり舐めたり噛んだり。
わたしが着替えて探しに行くまで、頑張るのだ。
わたしがその家を出ていく日、
まっすぐ、静かな目でこちらを見ていた。
にゃ、とも鳴かず、
じーっっと、遠まきにこちらを見ていた。
もう会えないと覚悟を決めている目だった。
この目のお陰で、
わたしはきっぱり、と出てこれたのだと思う。
しばらく、猫を見れない時が過ぎた。
野良猫を見ても、テレビの中の猫を見ても、遠くの猫の鳴き声を聞いても。
かわいいあの子に会いたくて堪らなくなり、
ぼたぼたと泣いた。
もう今は、そんな風に泣くことはないけれど、
それでも、時折あの目を思い出しながら、こうしてここにいる。
未だ猫を見かけると、"すん"と言うポケットに落ちながら。
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2018.05.18 23:41
2018.05.18 13:48