正しさとは一体何であろうか。
人は人に勝手に期待して、勝手に失望する。
世間には常に
「世界が自分たちに都合のいいものであってほしい」
という大衆の欲望が渦巻いている。
誰しもが自分の正義を持っていて、
この世で暮らしているように見え。
朝の混雑する電車から、人を押しのけてもわれ先にと降りようとしたり(お急ぎなのね…)、団子のように固まって出入口をふさいでいる子どもたち(一瞬たりとも友達と離れたくないのかしらん…)。
もはや、あの頑なさは正義だ。
そんなこんなで、
子どもですら「自分の正義」で生きている。
とか、言うと。
子どもは自由でいいじゃないか、
子どもの個性を抑えるな、とか、
これまたどこかの誰かの正義を差し出されたりする。
いえね、自分の正義を認めてほしいなら、
他者も尊重しましょ、て、だけで。
マナーを守るだけで消えてしまう個性なんて、
はなから無いも同然だ。
とは言え、このわたしの思いもわたしの正義に過ぎず。
まあ、世間でよく見かける、“白黒をつける正義”には、中毒性があるのである。
匿名で他人の過ちを糾弾し、ひとときの快楽を得られると、
罰する対象を常に探し求めるように脳はできている。
所詮、正義を他者を攻撃する材料にしてしまったら、単なる自己満足だ。
“白黒をつける正義”は、ともすると、
こちらが誰かの正義を一方的な解釈で、
分かった気になって起こる。
相手の正義をわたしは本当に理解できたのだろうか?その真意はどこにあるのだろう?
白黒つけられるほどに、“わかった”のだろうか?
そう自身に問える余白を持っていたいものである。
とは言え、正義というのは、矜持であり生き方であり、情熱だったりする。
誰かを守ったり、世界を豊かに変えたりする。
わたしの癌だって、誰かの弛まない正義のおかげで治療法が生まれ、
いまこうして生きながらえているのだ。
どうも、世間では多様性や心理的安全性などの言葉が踊っているけれど、
実情はいったいどうなのだろうか?
多様性や心理的安全性という“正義”を謳いながら、
同じ価値観同じ意見以外は淘汰される場面を何度も見てきた。
正反対のことを言ったら「黙ってて」と言われたこともある。
自分と異なる考え方や意見は、
時として不快な思いを抱くこともあるかもしれない。
けれども見えていないものを見せてくれる。
視野を広げ、新しい視点を見つけ、私たちを発展させ、成長させてくれるものだ。
自分の思う“正しさ”にばかり目をやってしまうと、
せっかくの機会に気がつくこともないだろう。
“不快だ”という感情のみで、そこへ向き合ってしまえば、
「世界が自分たちに都合のいいものであってほしい」
という、どこかのコメント欄と同じだ。
心理的安全性というのは、“同調された正しさ”だけがある世界ではないだろう。
どれだけ異なることを表現しても、マイノリティな発言をしても、
それが感情の対立にならない場だと、わたしは思う。
人が心の内面に持っている感情や思考は、
とても多様で複雑なもの。
人生において何を一番大切にしているか。
どんなときに仕事での喜びを感じるか。
それはどんな体験に基づくのか。
許せないときの感情は何に由来するものなのか。
何をもって、その意見を持ちえたのか。
自分のことですら明瞭に答えられないのに、
いわんや他者をや。
人は他者と生きている。
仕事でもプライベートでも。
親や子ども、友人、そして自分自身ですら、
本当はよく分かっていない。
だからこそ、知りたい。
分かってるつもりは一旦脇において、
判断せずに向き合いたい。
そうやって、わたしは生きて、
知らないことがあるまんま老いていきたい。
だって知らないことがあるって、
楽しいんだもの。
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