観察するとは、自分自身を体験すること


桜の便りを心待ちにしている頃、
“観察する”ということをつらつらと考えていたところに、
The Art and Science of Observation(観察の術と科学)」というテーマで、
Points of You®のワークショップがあったので参加。


ファシリテートするのは、
ポーランドのリードマスターJulija。


彼女の作る、淡い幻想と濃密なリアルさが混在する世界に、

ただ聞いているだけであっという間に惹き込まれる。



オンラインでは伝わりにくいとされている、
触覚すら手に取るようにそこにあるように感じるのは、

彼女のプレゼンスの力だろうか。



さて、「観察」。

(ところで、Points of You®は主に写真のカードを観察することからはじまる

(写真たちは“観察する”ようにできている))



「観察」する機会は、小学校で、特に理科の時間に、

よく出てきたように思う。


元々、「観察」は、仏教の教えで用いられている言葉で、

「知恵によって対象となるものを正しく見極めること」とのこと。



辞書を引けば、

「物事のありのままの現象を注意深く見極め、客観的な知識を得ること」

とある。



はるか昔の理科の実験で習ったことだけど、

わたしたちは何かを観察するときに、

果たしてそれが出来ているのかどうか?


例えば、コップの水が「増えた」「減った」は、現象を客観的に表している。
けれども、「増えてしまった」「減ってしまった」のような表現に変わることもある。


減らしたかったり、現状維持したかったり、増やしたかったり、

求めていることや過去の経験や思考のルーティンで、

現象に評価や感情を伴った判断が加わる。



感情や判断は一旦脇に置いておかなければ、
客観的に観察しているとは言えないのではないか?

とも言えるし、

時に、比較や判断に捉われすぎると、"本当のこと"を曇らせる。



だからこそ、
評価に伴ってくる感情や判断も含め、
「気づくこと」が観察すると言うことではないだろうか。


なぜならば、気がつかなければ、
脇に置くことはできないからだ。


良し悪しや、出来た出来なかったとして。
なぜそう思うのか、そう感じたのか。


浄化されていない、統合されていない感情を
眠らせたままにしておくと心に澱が溜まっていく。


時折それを取り出して掃除しておかないと、
心はうまく動作しない。


わたしは、何に反応しているのか?
何が自分に起こっているのか?


気づいたことに対して、

批判やジャッジをせず、ただ観察すること。



それはすなわち、自分自身を知る。
ということだ。


Julijaがシェアしてくれた動画で、
印象に残った言葉がある。
(動画:「クリシュナムルティによる観察の術」の全編は、 こちらから)


『判断しているうちは、まだそれを超えようとしていないということ』


観察するとは、眠っている自分に気づき

認知していなかった自分自身を体験することだと思う。


日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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