――共感というもの、かくも人を惑わす。
映画やドラマは、目と耳をたやすく操り、思うままに感情を揺らしてくる。
切ない調べに、美しき映像が重なれば、
人はたちまち「切ない」「感動的」と思い込んでしまう。
けれども、それはすべて仕組まれた枠の中。
その導きに身を委ねるばかりでは、独自の感想も、深い洞察も生まれようはずがない。
世にあふれる感想といえば「泣いた」「感動した」の類ばかり。
同じように感じなければならぬという圧が、いつの間にか人を縛っている。
そうして、自分の感情を自分のものとして持つ力は、いつしか脆くなってしまうのだ。
――温室の花々ほど、不思議なものはない。
温室の中は常に穏やかで、雨に打たれることもなく、花はただ咲き続けている。
だが、それは自然そのものではない。
循環を忘れた楽園は、安らぎと引き換えに変化を拒む。
長く留まれば、生命の本来の拍動からは遠ざかってしまう。
人はその温室に心を預けるとき、深さを自ら制限してしまう。
揺らぎを弱さと勘違いし、孤独を欠陥と見なし、正義の名を借りては言葉を振りかざす。
一方で「損せず得たい」との欲望は恥じらいもなく露わにする。
それこそ、お花畑に住む者の姿に似て、自由に見えて実のところ自己を見失っている。
――エゴというもの、捨ててしまえばよいのだろうか。
そうではない。
エゴを失うとは、自我を見失うことに等しい。
それは感情や魂を揺さぶり、内奥へと至るための扉である。
欲望や執着を認めるとき、不安や葛藤は生まれる。
けれどもそれは、人が人である証にほかならない。
ここで言う欲望は、あからさまに「得たい」と求めるものではなく、
隠され、秘められたものである。
ときに本人さえ気づかぬほど深く、心の奥に潜んでいる。
真正面からその欲望に向き合うとき、初めて「本来の自己」の輪郭が浮かび上がる。
エゴは捨て去るものではなく、理解し、調和を探るうちに、
失われた自己は少しずつ戻ってくるのだ。
――夜の静けさほど、澄み渡るものはない。
夜。昼の喧騒と異なり、孤独をともなって人を包む。
けれどその孤独は、恐れるべきではない。
それは眠っていた感情を呼び覚まし、心に映し出す鏡だからである。
深い沈黙に耳を澄ますとき、かすかな「自分の声」が立ち上がる。
弱さであり、同時に新しい可能性でもある声だ。
夜の静けさを味わえば、人は自己と、そして他者とも結び直される。
それは昼の世界では決して得られぬ「生きたつながり」である。
――お花畑はやさしい。だが、やさしさだけでは人は深まらぬ。
荒れる風に打たれ、雨に濡れ、静けさに立ちすくむとき、人は豊かになる。
光と影のあわいにこそ、私という輪郭は浮かぶ。
安心なお花畑を出て、あえて孤独の時を過ごすこと。
そこにこそ、自分の鼓動と自然の呼吸とが重なる瞬間があるのだ。
まぼろしをば越えむと思ひけむ
夢と現のあはひにて
複雑の情けを 美味(うま)しとぞ知る
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