少し前に流行りましたね。
「ありのまま」
なにを選択していくのか
生きるとは、選択の繰り返しなのだと思う。
グレイヘアがなんだか流行りのようになっているけれど、
あれって「何もしない、ありのままのわたし」とは、
ちょっと、いえ、かなり違う…とわたしは思っている。
“何もしない”からはむしろ真逆の、
自分を見つめ、
何が自分に必要なのか、
何がわたしに似合うのか、
どんなわたしでいたいのか。
自分の心と身体の状態をよく知り
弱さも受け入れ
失敗から学び
自己の存在にプライドを持ち
シワを残さない努力はするけれど、
シワの美しさも知っている。
痛みも苦しみも辛さも孤独も受け入れ、
自分をちょうどよく甘えさせることも知っている。
「手入れしないありのまま」とは
まったく相違するように思う。
グレイヘアが似合う人なんて
そうそういない。
草笛光子なんて、
最高にかっこいいと思う。
さて、そんな草笛光子さんは
どうなのか知らないけれど…
恐らくグレイヘアの似合う彼ら、彼女らは
“[思考停止した]なんでもいい”とは、
言わないのではなかろうか。
要は、選択の責任の所在、のようなものだけれど。
“なんでもいい”を自責にするのか他責にするのか。
他責の場合、多分に言外に〈本当はなんでもよくない〉が含まれている。
「なんでもいい」を選択したことに気がついているのか、いないのかは、分からないけれど。
委ねておいて意に沿わない結果になった場合には、
何か自分以外に責任を引き受けさせようとする。
いや、そもそもそうした思考・言動には
気がついていないのかもしれない。
そりゃ、常に選択のしっぱなし、責任のとりっぱなしは、疲れる。
ぼーーーーっとしている時間は大好きだ。
わたしが言いたいのは、
“無意識の責任の押し付け”を含んだ「なんでもいい」は、ちっとも美しくない、
自分の怠惰を「ありのまま」という
免罪符を翳して開き直ることの滑稽さだ。
自分を感じずに、自分の感情を放ったらかしにしていることの哀しさだ。
見ているのか見えていないのか、
見ようとしているのか。
一旦委ねたのなら、「意に沿わない」に固執していたら、得られるものは少ないのではないだろうか。
むしろ、意に沿わないことにも、
そこに、委ねなければ得られなかったものが
必ずあるはず。
“なんでもいい”が、“なにもかもがOK”に変わるのは、そんなことなのではないかしらん。
クールなグレイヘアは、
そんな何事も「ありのまま」へ昇華させるチカラを持ったヒトに似合うのではないかと思う。
そんな芸当には、
ちっともたどり着けないわたしには、
グレイヘアが似合うようになるまでに、
まだまだずいぶん時間がかかる。
それまでは、
葛藤も孤独も、歓びも愛しさも
その過程も慈しみ尽くしていこうと思うのである。
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