風の時代にあなたは何を見るのか?


“わたしらしさ”と世間の言う“平等”は、

まったくもって、等しくならないと、感じているのだけれど。



世の中は平等=皆同じ、ではない
それは当然のことで。


その平等を“人権や人格や権利”に持ち込むから
不平等は悪だという声高な一見正義に身罷られてしまう。


なんのことはない。
人は皆違うのだ。


「人はみな違う」ということにおいて、
人は平等なのだと思うのだけれど。


例えば「同じようなものが同じように得られる」として。


わたしなんぞひねくれ者は、それ本当に欲しいですか?
と思っちゃうのだ。


誰かがもらってるから、誰かが手にしてるからと言って、

自分に必要のないものまで、自分が本当には欲しくないものまで、欲しいのだろうか?



個を求めつつ、声高な一見素晴らしいことのような
“平等”に正義を見出し、“個”が排除される。


個を確立している人たちは、
個の変化を恐れないし、他を否定していないように見える。

ある意味、他はどうでもいいというような。



他に対していい加減にぞんざいにするということではなくて。


個を確立しようとすると言うことは、
他のすべてが個を表現する要素になる。


どうでもいいとアテにしない一方で、その全てを尊重しているのではないかと見えるのである。
そして、さも“平等”だと与えられるのを待つのではなく自ら取りに行くのだ。


己の個を表現しようとするならば、
他人のものだけで己を語ることなかれ。


わかりやすさというのも、またこれ不思議なもので。
情報なり伝達なりは、誰が読んでも同じものが得られることが尊ばれる。
また、多くの共感を呼ぶことも、これまたわかりやすさが必要になるのかもしれないし、

例えば偉人たちの名言はたしかに“刺さる”。



そこにどう個を介在させていくのか、
と言うところなのだろう。


同じ服、同じ言葉、同じテーマなんかでやっていても、結局はそこに個が滲み出てしまう。
それを人は世界観と呼ぶのかもしれない。


それはもう、「そうせざるを得ない」というような、

ある種の無意識下の強迫的なもので作られているのでは?と思う。



いくら他者の体験や知識を使っていても、
自分のフィルターを通して表現されているものには、その人らしさが出る。

逆も然り。ではないのかと、思う。


最近とある、ミッションで「葉っぱ」を探しに家の近所を歩いた。
葉っぱは、ここそこに大量にあるのに、

わたしにとっての「葉っぱ」がなかなか見つけられない。



自分の世界て、そゆものだ、と思う。
たくさんあるなかで、「わたしのため」を見つけるものだと。


わたしにとっての本物である。ということ。

それを見つけるには、こころが「わたし」に開いていないと見えない。
違和感や直観、そんなものが必要になるから。


“個”とは、何も突飛である必要もなく、
あなたがあなた自身を受け取る“覚悟”ということだと思う。


自分自身にレッテルを貼るわけではなく、
昨日の自分も今日の自分も明日の自分も、
変わっていく自分も、変わらない自分も、慈しんでいく。


“個”は孤独でもある。けれどもそのことを認めたとき、自分以外の“個”を尊重し輝かせる。

そして“個”が繋がっていく。



この個の時代に、あなたはなにを見るのだろうか?


真のあなたにとっての本物。
きっとあなたのこころはそれを知っている。

日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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