コトバには時間の流れがある
どう捉えるかは
人それぞれだろうけれど
わたしは
「うっとり」という言葉に流れる時間がすきだ
辞書を引くと
①快さに浸ってわれを忘れるさま。恍惚(こうこつ)とするさま。 「 -(と)音楽にききほれる」 「 -(と)した表情」
②茫然(ぼうぜん)とするさま。 「別れのつらさに-と,気抜けのごとく/浄瑠璃・寿の門松」
③気を失うさま。朦朧(もうろう)。 「 -として路傍に昏睡し/万国奇談 輔清」
“三省堂 大辞林”
とある。
なんというか、
「うっとり」には、時間を止める作用と永続させる作用とが同時に起こる。
そこに入った途端に、違う空間に移動する。
日常における、Unexpected 。
誰かと話す。
何かを書く。
文字を読む。
「言葉」は日常にある。
話せば話すほど、
相手や対象によっては、
余分なものが加えられて、
言葉が流れていく、というようなことが起こる。
つまり、どんどん“本質”からは、ずれていく。
同じ彫刻を観ているはずなのに、
実は同じテーマを与えられた
まったく別の彫刻を観ているようなもの。
いつまでたっても、
言葉は滑っていく。
まぁ、流してしまえるのなら、まだよい。
恐ろしいのは、
どんどん加えられているにもかかわらず、
比例するように、どんどん自分が閉じていくこと。
目の前には氷があるのに、同じテーマの大理石を掘らせようとさせられるような。
大理石用の道具を与えられ、自分がなにを掘りたいのか、まで失われてしまうことは、
空恐ろしい。
逆に、
話せば話すほど、
書けば書くほど、
読めば読むほど、
くっきりと大事なものだけ残る、余分なものが削ぎ落とされ、明瞭になる。
まるで、氷の彫像を削っていくような時間。
削るためには、ひとつの方向からでは不可能だ。
ひとつの氷のかたまりの周りをくるくると回らなくてはならない。
削る道具も研ぐ必要があるし、
自分には無い技術を人から学んだり教わったりする。
自分の見えているものが、本当なのかどうなのか、
疑ってみたりもする。
人の道具を取り入れることは、
わたしの道具を失うことではない。
むしろ、わたしの可能性を無限大に、且つ明瞭にしてくれる。
氷はどんどん削られていくのだが、
わたし自身はどんどん開いていくような感覚なのだ。
たしかにそこにある「カタチナキモノ」を
捉えていく。
この捉えられそうで、捉えられない、
もしかしたら、はっきりと捉える必要のない曖昧なものに向き合う、この甘やかな作業に虜になる。
そんな時間に
わたしは「うっとり」と我を忘れるのだ。
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