鬼宿の庭に遊ぶ

久しぶりに、
咽ぶように泣いた。

閉じ籠める必要のない、なんとも気持ちのよい
堰を切ったような。

なんの粘度もない、自身から出ているのに畏れ多いが、神様に捧げる美酒のような雫。

鬼宿の庭 佐野未央子


子どもの頃、大晦日になると実家では、先ず父から五右衛門の風呂に入り身を清めた後、御神酒と鮑の器にのせた餅米を、家中のそこここにある神様へ供えて回る、決まりごとがあった。


小さなわたしのお喋り相手は、庭の草花であり、飼っていた6羽のアヒルや池の鯉であり、屋根に腰掛けて見上げる星空であり、蛇苺のなる小川であった。


春には山へ祖母と筍や山菜を採りに登り、夏には祖父と一緒に箒と小さな硝子瓶を持って蛍狩りに行き、秋には父のカメラを借りて一面の秋桜を撮りに、冬は母の得意な牡蠣とほうれん草のグラタンで火傷して。


いつだって当たり前のように、ある存在があった。

“見えないモノ”とされているけれど、
それは、わたしにとっての「美しいもの」の正体かもしれない。


漫画であろうと小説であろうと、写真であろうと絵画であろうと、花屋であろうとパン屋であろうと、歌であろうと映画であろうと、高級フレンチであろうと大衆居酒屋であろうと、誰かのブログであろうと講座であろうと、感情であろうと体験であろうと…


どんなモノでもどんな呼び名がついていても、いや名前もなくても、「美しいもの」には、尊厳がある。

そこに存在する全てのモノへの、対話があり、畏敬があり、愚かしさがあり、可笑しみがある。


そこに音が流れ、匂いが流れ、時空が流れ、うっかりすると、眼の奥をぎゅっとつままれる。



誰にもある懐かしいものは、足元からやってくる。
未だ知らぬ、尊ぶものは、天から降ってくる。


目に見えるものと目に見えないモノ
どちらも等しく、美しい。


わたしは、ちっぽけだ。
すぐに落ち込み、すぐに忘れ、あっという間に奢る。
毎日、勝手に生きている。


そんなわたしの自己憐憫さえも、美しいものは、飲み込んで噛み砕いて、小さなパズルのピースにしてしまう。

そうすると、ふと、生かされていることに
気がつく。

だからこそ、カタチナキモノによって作られた、記憶というピースで、戯れ遊びたおそうと思うのだ。

日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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