さて、先日書いたこちらの記事の続き
「(誰かにとっての)何気ない朝」を「(自分にとっての)特別なワンシーン」に切り取って描写するためには、3種類の力が必要
ひとつめ「知る力」絶対的な知識量
ふたつめ「紐づけて使う力」情報に関連性を持たせどこで使うか
みっつめ「祝福する力」この世界を見る視線
ひとつめ「知る力」の記事はこちら
ふたつめ「紐づけて使う力」について
破壊と創造と。
ひとつめの「知る力」を活かすためには、
いったん、得たものを壊すことが必要なのではないでしょうか。
情報や知識というものは、シナプスのようにどこかで関連づけられていたり、紐づけられて、定着する。
「林檎=赤くて丸い」とイメージする人が多数のように。それは“記憶する”ということの仕組みでしょう。
ではそれを「自分の特別な林檎」にするには。
遊びをせんとや 生まれけむ
戯れせんとや 生まれけむ
遊ぶ子どもの 声聞けば
わが身さへこそ 揺るがるれ
遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか、
戯れをしようとして生まれてきたのだろうか、
一心に遊んでいる子どもの声を聞くと、
私の体まで自然に動き出してくることだよ。
ー梁塵秘抄ー
いったん、壊してみる。
てんで散り散りに。
子どもって、そんな言葉遊びが得意ですよね。
時折、ハッとさせられることを言ったりする。
思い込みがない、って
すごい。
色を変えてみたり、味や形、匂いを変えてみたり、
さらに他のものをくっつけてみたり。
例えば、赤くて丸い林檎
赤→「黒色」=「イカ墨」
甘い→「苦い」=「失恋」
丸い→「三角形」=「入道雲」
「◯◯◯」=「・・・」
そこに体験なんかもくっつけてみる。
「イカ墨」=「デートでは避けたいわね」
「失恋」=「立ち直るのに時間が必要だわ」
「入道雲」=「お洗濯日和な朝だわ」
遊べるだけ遊ぶ。
『林檎追分』
子どもの頃
母の剥いてくれる林檎は
いつもうさぎさんになっていて
こどもゴコロに
頭から食べたら痛いかな
お尻から食べても痛いかな
そんなことを思っていた
大人になってわたしは
朝、恋人にうさぎさんを作る
“こんな子どもっぽいの”
などと言いながら
それでもはにかみながら
頭から食べている横顔を眺めている
いつからだったのだろう
その横顔を見なくなったのは
気づけばひとり
キッチンに立ったままで
林檎を齧る
皮なんて剥きはじめてしまったら
うっかりうさぎさんにしてしまうから
うさぎさんにしてしまったら
あの横顔を思い出してしまうから
うさぎさんが泣き出してしまうから
などと。
ひとつ創造する。
まったく同じ体験があるわけではないけれど。
子どもでなくなったわたしには、
日常を生きてきた体験がある。
これまでにあった時間や情報や知識を紐付けていくと、林檎でひとつ“わたしの特別な朝ワンシーン”ができる。
年を重ねた今だからこそできる遊び、
があるというものです。
ベランダに干した風に舞うシーツが陽を浴びてきらきらとしている。
どこか遠くからお腹を空かせた仔猫の鳴き声が聞こえてくる。
いつもより少し丁寧に淹れた珈琲の香りにキッチンが包まれて、ほんのいっとき静寂が訪れる。
そこには、わたししか知らない朝がある。
どんな小さな出来事も
どんな悲しい時間も
抱えきれない幸せも
ありふれたと、いつもと変わらないと、
思っている日常が、
たくさんの“自分にとっての特別なワンシーン”で
溢れていることに気がつくでしょう?
そうすると、ほら。
世界はたくさんの色で彩られていることに、
気がつくでしょう?
毎日がやさしくて儚くて美しいものを
見せてくれていると気づくでしょう?
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