世界を見つめる解像度 -「知る力」-

さて、先日書いたこちらの記事の続き

「(誰かにとっての)何気ない朝」を「(自分にとっての)特別なワンシーン」に切り取って描写するためには、3種類の力が必要
ひとつめ
「知る力」絶対的な知識量
ふたつめ

「紐づけて使う力」情報に関連性を持たせどこで使うか

みっつめ

「祝福する力」この世界を見る視線


ひとつめ「知る力」について。



この世の中、「情報」で溢れかえっている。
苦労せずとも意図せずとも、
毎日、何かしらの形で届く。

ただ、それは受動的な“知らされたもの”。


「知るチカラ」とは、

どれだけ好奇心を持って、世界を見ているか。

ではないのかと思う。


自分の持ちうるもの、自分が好きなもの、得意な分野、それはもちろんのこと、
今すぐに必要ないこと、これまでは不要と避けたもの、そんなことにも。


自分にとって有益な情報以外は無意味なので時間をかけなくていい、ということをかつて僕も言ってたのですが、そうすると「自分にとって何が有益かを判断する枠組みそのものを変換させる情報」を漏らしてしまう@山口周


ただ集めた情報に恐れずこころを開いて紐解いていくと、

それはわたしの唯一の知識となるのでは無いでしょうか。




例えば、人との関係でも。

昨日までちっとも理解できない、などと思っていた人が、今日話してみたら、あら?なんだか似てるわね、て思ったり、新たな情報を知るのです。

きっと、それはおたがいさまに。



例えば、本にしても。

難解すぎて、手を出せずにいた
脳科学の文献。


図解を見ただけで、目眩がしていたのだけれど、
なんとなく“記憶”について知りたくて、
読めるところから読みすすめていったら、
あららら??
なんと!面白いじゃないの!

面白いと思ったら、
難解に見えていた図解の表していることが
少しずつわかりはじめる。


不思議なことに、知ることを重ねていくと、まったく良さの分からなかったものが、

急に面白く感じたりする。


まるで子どもの頃、苦くて嫌いだった“ユリ根”などが、大人になったら“素敵なお酒のアテ”になるように…。
(ま、わたしの場合変わった子どもだったので、ユリ根は昔から大好きだけど)


もちろん、食べ過ぎて嫌いになるものもある。
知ることを重ねて、結果、やっぱり嫌いだわー、てことも往々にしてある。


人間だもの、それはそれでよし、なのだ。

むしろ、それが無い方がこわい。


それでもやっぱり。

わたしは「自分こそ絶対」と思わないようにしたい。
選択したことに、誇りも責任も持つけれど、
知ること、好奇心を持つことには自由でいたい。


毎朝、ただ同じ道を歩いているように見えても、
実はどこか違っているのかもしれない。


昨日とは違う匂い、すれ違う人、道端に咲く姿を変え雨を帯びた露草、同じ青空に浮かぶ雲の色も形も違う


そんなことに目をやると、

どこがいいのかわからないなどと思う人にも、
心許す大事な人も、
ただ、一瞬すれ違うだけの道行く人にも、


もともと好きなものからも、

一度は要らないわと一蹴してしまったものからも、


たくさんのものをもらっていることに
気がつく。


そんな時、ああ、わたしは、生かされているなあ、と思うのです。



ほんの少しの好奇心で、
毎日はとても豊かになると思うのです。

日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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