紫陽花がちらほらと咲きはじめたこの頃
アジサイにはやっぱり雨が似合うなあと思うので、
いつもなら少し躊躇う雨も
ああ、いいなぁと道端でぼんやり立ち止まってしまいます。
さて、紫陽花。
わたしもとても好きで、
このサイトのロゴやカバーにもしているのだけど。
あの形容なのか、質感なのか、
和歌にもたびたび編まれたりする。
* あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな(源俊頼『散木奇歌集』)
* 夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり(藤原俊成『千五百番歌合』)
* あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る(藤原定家)
なんだか、
「しっとり」しているように感じるのは
わたしだけでしょうか。
この感情や感覚や記憶に結びついた美しさというものがある。
「新雪の降った暁の富士山」とか「雨に濡れた新緑の清々しさ」とか。
誰もが何となく「美しいなあ」と感じるもの。
そして同時に目尻をキュッと絞られたり、胸つまされるようなもの。
その一方で、人が作る美しさもある。
人によってはちっとも美しさが分からないもの。
だけれど、
人によっては説明のつかないくらい無性に魅かれてしまうもの。
わたしなら
「職人の捲り上げた袖の皺」とか、「無造作に積み上げられた本の山」とか。
あとは、
人工的ではあるけれど、測られた美しさを持つもの。
「建築家がデザインしたビル」とか、「Apple社の製品」とか。
MOMAにありそうなもの。
他にも、
目には見えないその場に醸成される空気の美しさもあるでしょうし、
同じ人間か?と思うほどに洗練されたモデルや俳優の容貌、
何がなんだかわからないけれど惹きつけられる現代アート、丁寧に作られた竹の籠、
文化と誇りを持った民族とその衣装、
テレビから不意に流れてきた旋律、食材から空間まで意図された一皿、見返りを求めない見知らぬ人の親切、遠くから聞こえてくる運動会の練習中の子供たちの笑い声、
何かに打ち震え堪えきれずに溢れた一粒の泪
……
ああ、世の中はなんと「美しい」であふれているのでしょうか。
人が美しいと思うものには、記憶と経験があるのかもしれないし、
自分の何かとその「美しさ」自体がお互いの琴線を鳴らし合い共鳴しているのかもしれない。
「美しい」とはなんぞや。
これを定義することは難しい。
たったひとつの答えはないのだと思う。
なぜなら「美しい」は人それぞれだからだ。
それでも「美しさ」には
それぞれの人がもつ「本質」があるような気がしてならない。
気がつかぬまに「美しい」なと感じたとき。
美しい、と感じた心を愛しく思って欲しい。
あなたの大切なものがきっとそこにある。
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