これから、
歯医者さんの定期検診というのに
ついつい食べてしまう。
チョコレートには、何か秘密があって、
人の衝動を止められない背徳にも似た味がする。
わたしは
『至極便利だ』
というようなものにあまり、惹かれない。
例えば、多機能ボールペンのような、
何色ものペンやシャープペンシルや消しゴムなんかも一体になっているような、もの。
これさえあればペンケースの中がすっきりすることは分かっているし、ペンを持ち替える必要がないことも、分かってはいるけれど。
例えば、『リビングがこれひとつですっきり』みたいな。
ティッシュケースにリモコンラックに
眼鏡入れに、果ては印鑑ケースに、などと
盛りだくさんななんと呼んだらいいのか分からないもの。
(ときおり、憎しみさえ感じる“便利なもの”がある)
ただ、それひとつに、究極を詰め込んだものに
惹かれるのだ。
えんぴつやえんぴつ削り、万年筆とインク、墨と硯、それぞれに名前がきっちりついていて
その与えられた使命を
“美しく”果たしているものが好ましい。
“えんぴつ”なんて、
口にのせてみたりしたら、
なんて愛おしいのだろう。
使うために、手間がかかるのも
またよい。
わたしは、その“手間”に色気があるのだと
思っているふしがある。
チョコレートは、わたしには、
その色気の究極である。
これは何を使ったチョコレートだったと
わかる頃には、すっかりわたしの中に溶けてしまっていてそれでも、
頭のなかに(何というか、チョコレートは脳が食べてる感じがする)ちゃんと余韻が残っている。
つかもうとすると
するりと逃げていって
それでも強烈な残像がある。
子どもの頃、わが父はわたしにいっさいの市販品のおやつを禁止していたので、わたしが食べるおやつと言えば、祖母の作ったクッキーやパンやスコーンやケーキで。
それはそれで美味しかったのだけれど。
時折り母が父に内緒でこっそりくれる、母にはウィスキーのお供である銀紙に包まれた小さなチョコレートは、特別なものだった。
父には秘密と言うのと、ウィスキーとチョコレートを口に入れて“てろん”としている母と、大切にひとつひとつ包まれたそれは、わたしには“大人の味”だったのだ。
大人になってようやく、気に入りのチョコレートを自分で買えるようになったわたしだけれども、時折り人から宝石箱のようなチョコレートをいただく機会がある。
先日いただいたそれは『背徳の味』と辞書に載せるとしたら、このチョコレートを例として載せるだろうというような、とても色っぽくて、くらくらするもので。
一口めの口溶けに誘われるように
ビターなカカオがほどけていくと
かすかなバジルがやってきて、あっという間に、
モヒートのホワイトラムに包まれる。
小さな小さな一粒が、わたしの記憶と一緒になっていくつものストーリーを紡ぐ。
そんな贈り物を選んでくれたことの
なんと罪深いことよ。
これでは、どうしたって
止められないではあるまいか。
潔く、この背徳に溺れるしかないのである。
2コメント
2020.02.22 14:05
2020.02.22 13:40