世の中には、スーパーヒーローがいるもので。
映画でも小説でもテレビでも、
主人公になったり、主人公を助ける存在として登場したりする。
そして、架空の人物ではなく、
現実の人物としても、ニュースや新聞やSNSなんかで話題になったり、する。
なんと、心根の立派なひとの多いことよ。
さて、その「正義のミカタ」であるけれども。
わたしは時に怖いなと思うことがある。
ここのところ、
映画を続けて見ているのだけれど。
ハンナ・アーレント
サラの鍵
サウルの息子
他、アウシュビッツ関連を9本と
映画館でプリズン・サークルを。
映画評なぞ、できないので
どれにも共通しているなと、わたしが感じたことを。
市井に潜む「正義のミカタ」について。
ハンナ・アーレントは、
「考えることで、人間は強くなる」という信念のもと、世間から激しい非難を浴びて思い悩みながらも、アイヒマンの<悪の凡庸さ>を主張し続ける。
※悪の凡庸さ
アーレントがアイヒマン裁判のレポートで導入した概念。上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうということ。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう事態を指している。
わたしには、アーレントは決して、ホロコーストもアイヒマンも擁護している訳ではなく、むしろ、その悲劇を繰り返さないために、自らの情や憎悪を押し殺し、“いったい何が起こったのか”という事実のみをレポートしているように見えるのだが…
彼女は、世間の人のみならず、友人たちからも
「正義」を振りかざされるのである。
プリズン・サークルは、
過熱する犯罪報道と厳罰化を叫ぶ声がある一方で、
私たちは本当は見えていないのではないか?と、
この国の「罪」と「罰」について、その背景について、「対話」から見えてくるものを淡々と映像化している。
犯罪は、たしかに罰せられ償うべきものでしょう。
それでも、その背景について知らない世間が、
裁くことなのだろうか。
人は、分かりやすく裏切り者や社会のルールから外れた人を、攻撃する。
わかりやすい(攻撃しても許されるだろう…とか?)攻撃対象を見つけ、制裁を振るうことの正義という名の快楽を気がつかぬうち愉しんでいるのか。
はたまた、社会活動に参加しているのだろうか。
「ありのまま、自分らしく」という呪符にとらわれ
誰かの言葉や世間体をもっともらしく、正義の発信をしていないだろうか。
この中毒性のある「正義」は、とても怖いものだ。
真実や背景など、ないものになってしまう。
さて、真のスーパーヒーローは、
おそらく。
世界中の誰に反対されようとも、真実と自身の弱さに向き合い、それでも尚、果敢に誰のものでもない『自身の正義』へ向かうのであろう。
事実は、いったいどこに?
正義に溺れることなかれ。
ついつい、「正義のツラの皮を被った」自己満足に
囚われ自身の価値観や世間の常識に飲み込まれそうになる、わたしへの自戒をこめて。
2コメント
2020.03.03 11:57
2020.03.02 19:05