“神さま”と呼ぶと、とたんに書きたいことが
端からこぼれ落ちていくような気がするけれど…
田舎の家にいくと。
“きちんと”自然があることに安堵する。
そこにあるのは人が自然界の小さな一部であるという、
ささやかで、厳しくて、それでも足ることを知っている暮らし方。
存在する全てのモノへの、対話があり、畏敬があり、愚かしさがあり、可笑しみがある。
音が流れ、匂いが流れ、時空が流れ、
うっかりすると、鼻の奥をぎゅっとつままれる。
目に見えるものと目に見えないモノ
どちらも等しく、美しい。
ネオンも喧騒もない、3分も歩けば蛍の飛ぶ田んぼに出る田舎の夜はまったく静かで。
今でも実家に帰るとはじめのうちは、
その静かさに心許なくなるのだけれど。
できれば雨の降る日に帰りたいと思う。
さわさわとそこら一面の空気が震えはじめたと思えば、ぽたんぽたんと土を濡らしていき、
ぴちゃんぴっちゃんとリズムを替えながら庭の金魚鉢で雨音と水草が踊りはじめる。
そうこうしているうちに、夜がやってくる。
真っ暗な真っ暗な蛍の灯りしかない夜。
携帯も繋がりにくいので、夜の音を聴きながら本を読むか寝るしかない。
ふと思うに。
神さまの創る庭は鏡のようなもので、
万物の光と闇をくっきり映し出すように思う。
反対に、人工的な作られた夜は、不思議なもので
闇を内側に抱えさせるようだ。
神さまの作る光と闇の庭は、
人を調整する力があるように思う。
誰にもある、懐かしいものは、足元からやってくる。
未だ知らぬ、尊ぶものは、天から降ってくる。
時折り、何もないけれど、何でもある、
神さまたちがおしゃべりしている田舎の庭が恋しくなる。
Darkness cannot drive out darkness; only light can do that. Hate cannot drive out hate; only love can do that.
闇は、闇で追い払うことはできない。光だけがそれを可能にする。憎しみは憎しみで追い払うことはできない。愛だけがそれを可能にする。
Martin Luther King, Jr.
どっちも大切よね。
そして、どちらも同じもの。
だと、わたしには見える。
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