無意識の悪意、というものがある。
こちらの構えなしに急に放たれた言葉は、
気がつかぬうちこころを蝕んでいる。
それは本当に何気ない一言や行いで、
放った方は忘れているかもしれない程度のささいなもの。それでも、わたしは振り払えずに傷む。
その小さなトゲ達は、
気がつかぬうちにわたしの心に浸食していた。
それは、5年ほど続けているものをやめようかと思うほど、わたしを酷く落胆させた。
これ以上、無意識の悪意に苦しめられない様に、
そんな言葉に傷まない様に、
わたしは殻にこもる必要があった。
優位を誇示するための言葉や責任転嫁、
支配するために放たれた言葉達。
対話の場を作ることを生業にしているのに、
言葉を返せずに殻に入ったわたしを
わたし自身がさらに追い詰める。
正面から向き合うしかない。
何故同じ様な言葉なのに傷付いたり傷付かなかったりするのか。
なぜそこに悪意を感じてしまうのか。
いったい、全体、なにが違うのだろう。
ふと、思い至る。
その言葉たちはわたしに向けられたものであるハズなのに、それはまるでこちらの反応はお構いなしなのだ。
“受け取り方は人それぞれ”
そんな戯言に包まれた、なにを言ってもいいだろうという世界に所属する言葉たち。
そのことに無意識のうちに嫌悪感を抱き、酷く悲しくなり、傷つく。
「どうして?」と答えを探しはじめる。
苛立ちやさまざまな感情が湧く。
思考は自分が納得できる理由を考え始める。
アタマで考えて見つかるのは、
必ず自我の「よいとわるい」。
そして、自我は原因を見つけるとその責任を追求したがり、誰かを必ず悪者にする。
小さな悪意を感じる時、人はそこに自分の問題があると認識しているのだという。
自分の心のうちで創ったものが、こうして現実に現れてくる。
「どうして?」という思い。
自分の心のなかに、自分を責める何かがある。
自分は迷惑をかけた。
自分ができなかったからだ。
自分の責任でああなってしまったのだ。
相手は無意識で、その痛い部分を突いてくる。
良い悪いという判断や、訳の分からない優劣、何かを犠牲にして成り立っているものへの、
わたしの嫌悪。
人は美しいのだと、心の醜いものすら美しさの一部だと思える世界を作りたいと生きてきたのに、
わたしがわたしの醜い心を赦していないのだ。
『色んなものが濾過されていく瞬間に出会えると嬉しい。その上澄みも澱もどちらとも、世界の美しさを作ってる』などと言いながら、自分自身の澱を認めていないのだ。
はああ、なんとちっぽけなわたしよ。
けれどもそんなわたしを救ってくれたのも
言葉だったりする。
わたしの世界を守りたいと言ってくれた人がいる。
言葉としてはそう表現していない。
自身の体験を伝えてくれただけだ。
けれど、その放たれた言葉たちは、
全身全霊でわたしを赦してくれたのだ。
赦そう、わたしを。
わたしの中にある結晶は、
大切な人たちが産み落とし、研いで、守ってきてくれたものではないか。
正しい道なんて分からない。
ただ、知っているのだ。
正しい道なんて無いと言うことを。
ただ、わたしが歩いた道ならば
わたしが選んだ道ならば正しいはずだと
そう思えるわたしになるだけだ。
わたしを生きよう
わたしで歩いていこう
Somewhere beyond right and wrong,there is a field.I will meet you there.
善悪を超えたどこかに、フィールドがあります。
そこでお会いしましょう。
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