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正しい道なんて分からない。
ただ、知っている。正しい道なんて無いと言うことを。
ただ、わたしが歩いた道ならば
わたしが選んだ道ならば正しいはずだと
そう思えるわたしになるだけだ。
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納得と共感に溺れる社会で、
与えられた選択肢を疑うために。
と、ある本の帯に書かれていて。
胸ぐらをつかまれ揺さぶられたような気持ちになった。
人は人に支えられて生きているとも思うし、
わたしも助けられて生きてきた。
『納得や共感』してもらえることは自己肯定にもつながるのでしょう。
ただ『理解されることが正解』だとか、『伝わりやすさが一番』とか、世の“わかりやすさの盲信”にとらわれていやしないか?と思うことがある。
無論、わたしもイイねとしてくれたら嬉しいし、
分かってもらえたと感じる時にはよかったと心から思う。
ただ、それを優先するあまり、
自分自身の書きたい言葉でなく『納得されやすい言葉』『どこかから借りてきた一見美しい世界観(イイねという共感)』など他者の正解を基準とした価値観に、わたし自身を乗っ取られていないかと。
「すぐにわかる! 」に頼り続けるメディア、
ノウハウを一瞬で伝えたがるビジネス書、
「全米が泣いた映画」で泣けない自分はおかしいのではないかという呪縛。
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(世の中に存在するオリジナルの『わかりやすさ』たちは、才能や努力の結晶だとも思うので、そんな文才には尊敬するし、唯一の正解を伝えている訳ではなく、とある視点を提供してくれているのだと、わたしは思っているので、『分かりやすい言葉』に疑問を持っているのではない。あくまでもそれを受け取る側とわたしのはなし。)
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と同時に『多様性やありのまま、視点の違い』などというものが
そこら辺を一人歩きしている。
繰り返される日々の選択のあまりの多さに
曖昧さを受け入れているようで、
簡単でポップでわかりやすいものの流行に共感することで、
自らの存在を許しているような不確かさ。
世の中にいったい何人の人が生きているのだろう。
全員、違う。
違うのだから、違うし。
経験のない気持ちは簡単には理解できない。
理解することなど永遠に来ないのではないか?と思うこともある。
それでいいのではなかろうか。
人と人はどうしたって違うのだ。
どんなに語り合っても、違う人生を生き、違う心を持っている。
そもそも、わかった気になっている
長く付き合いのある自分のことですら、
知らない、気がついていないことだらけだ。
たとえ共有しても共感しても
それは自らと他者の気持ちをそれぞれで解釈して
近づけているだけにすぎない。
他者には決してわからない部分が自分にはあり、
どんなに愛した人だって、自分にはわからない部分を持っている。
だからこそ、人は「唯一の存在」と言えるのだと思う。
わからないけれど、それでもわかろうとし続けるとき、
その人の世界にわたしが存在して、わたしの世界にその人が存在する。
それが、世界とつながるということではないのだろうか。
これからもわたしは人と生きていく。
それぞれの孤独を抱えながら。
一歩一歩進んだり、立ち止まったり、振り返ったり、迷ったり、突き進んだり、誰かの力を借りたり、これまでを見つめ直したり、壊したり、逆らったり、任せたり。
人は違うからこそ、唯一の正解がなくて、
だからこそ、もたらされる喜びも葛藤も絶望ですらも、
わたしたちを新たな世界へとつないできたのだと思う。
これからもそれぞれの選択を重ねながら、
正解のないことへ向き合い続ける。
わたしを生きよう
わたしで歩いていこう
わたしを見つめるワークショップのご案内
【オンライン】わたしを旅するPoints of You® vol.4
2020年9月13日(日) 13:00〜16:00
ーわたしで歩く、わたしで生きるー
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