「ありのまま」は誰かにあなたの荷物を背負わせる免罪符ではないというハナシ


ずいぶんと前に、こんな記事を書いたのですが。

時折り、
「ありのままのわたしを受け止めて」と
不用意に人に背負わせる人がいる。



「わたしのことわかってほしい、知ってほしい、受け止めて!(しかも好いていてほしい)」

という“ありのまま負の感情”という荷物を投げてくる。



(“送る”なんてやさしいもんではなく、受け取る側からすると背中から投げつけられたような気分だ)


荷物を投げている本人からすると、無意識で。
勇気を持って、信頼して、自己開示したのかもしれない。


ただし、そのような荷物は投げるのも負荷がかかっているかもしれないけれど、

受け取る方にも負担がかかるのである。




特に一対一のプライベートな場であれば、
投げられた方は受け取らざるを得ない。


それは、品名もない中身のわからない箱に「ありのままのわたし」を入れた荷物を送っているようなもので。(そのような荷物には品名がない変わりに、ご丁寧に「信頼」と書かれた“注意書きシール”が貼られている)




あなたは、そんな荷物を受け取ったら
どうするだろうか?



もしくは、「自分が楽になるための」荷物を

“ありのまま”の自分ごと、送ったことはないだろうか。(わたし自身、送ってしまったことがあり反省だらけだ。)




何のために、その荷物を送ったのだろう?
そこに、受け取る相手のことを思いやる気持ちは
あっただろうか?そんな余裕なんてない?



家族であろうと友人であろうとパートナーであろうと、誰かとともにその関係を作っているのならば、
その関係をどう捉えているのか。



片方が支え、片方が依存している、
そのような関係はいずれ破綻する。



自分のためじゃなくて、二人のためであるように。
もしくは相手のため、であるように。



「自分らしさ」とか「自己表現」とかの
時代の寵児を鵜呑みにして簡単に免罪符にしては、
本当に手に入れたいものなんて、
いつまでも手に入らないだろう。



もちろん、人間、色んな感情に揺さぶられる。

落ち込むし凹むし、自分が嫌になったり。

そうかと思えば、世界の全てが美しい!みたいな人間讃歌のような気になったり、する。




それは当然のこと。それが悪いのではない。
むしろそれに向き合い、そのまま受け取る。
そして、「コントロールできない自分はダメ人間だ」などという自己否定を手放せているか?

ではないだろうか。




感情は容易にコントロールできないものである。
ただ、それによって、自己の存在価値まで否定する必要があるだろうか。



コントロールできないものを認めることと、
自分をコントロールするというのは、
同じ線状にあると思う。



不用意な感情の荷物を送りつけると言うのは、
自身がコントロールできていない自己ごと、
相手に背負わせるということではないだろうか。



それって、あなたもいらない荷物では?



「言ったら楽になる」
そう言うことも往々にしてある。

わたし自身も、極力、受け取りたいとも思うし、

わたし自身も話を聞いてもらって、整理したい時がある。




それでも、だ。



自分自身がいらない荷物を“そのまんま”誰かに背負わせるのは、やめよう。




「自分らしさ」とか「自己表現」とか「ありのまま」を届けるのはその次だ。
受け止めてくれるからって、

相手を自身の不要な荷物のごみ箱にしてはいけない。




「ありのまま」の自身をケアするのは、まず自分自身だ。


荷物を送りたくなったら、自分自身に一度聞いてみよう。
「自分はどう生きたいのか?」と。

日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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