世界はわたしに何も期待していない


まずは、こちらの物語から


先日の夜、とても賢い人と話しました。
愛、失望、そして猫についても話しました。 

私は彼に、猫が一番好きで、
どれだけ猫に憧れているか(そして私自身についても少し)

ーどんなに深いところへ落ちても彼らはいつも足で着地し、傲慢で無関心な“猫の笑顔”を見せ、何事もなかったかのように歩き続け、決して落下したりなどしない、彼らにとっては当然のように ー

を話しました。

この賢い男はしばらく黙っていましたが、
私が間違っていると言います。

猫は怪我をしていないかのように振る舞うだけです。確かに彼らは大抵、足で着地しますが、
実際には毎回背中を打ちつけています。
それにもかかわらず、猫は自分のイメージを意識していて、毎回足で着地すると期待されていることを知っているので、真実を隠しているのです。 

ありがたいことにその男はその夜私の顔を見ることができませんでした。 
さもなくば、彼は私の眼を見て、そして私が粉々に砕け、床に散らばっているのを見ることができたでしょう。


ヴェレッド・モーセンゾン
Points of You®︎Flow「Expectations」より



「世界は何もわたしに期待していない」
これは、こちらの記事でも少し書いたのですが。


言い換えると
「世界はわたしに何も要求していない。」
が、感覚としては近いかもしれません。


そのことに、わたしはとても安心し、
丸裸の自身を解放できたのです。


ともすれば、
「期待をされることはありがたいことだ」
「期待されないなんて私は何が足りないの?」
「期待されないことは残念なことじゃないの?」
など、感じる方もいるかもしれません。


期待が生む成長や承認、それがあることは
もちろん承知しています。


ですが、一方で冒頭に引用した物語のように。
“真実を覆い隠す”こともある、
とわたしは思います。


時に人は、自分にも他者にも
こうあって欲しい。と願い、
それがいつしか、こうあるべきだ、となる。
(口にするしないに関わらず)


ある種の優しさや褒め合いも同様に。


例えば、誰かが涙を流していたら、
あなたはどうするでしょうか?

涙を拭いてとハンカチやティッシュを差し出すのでしょうか?

それは何のために? それは誰のために?

もし“泣ききる”ことが必要だとしたら?


時に、人は奇跡を願う。


奇跡とは、人が理解できるものとできないものの
境界線を示す言葉だ。


赦しのためだろうが感謝のためだろうが、
神の意思は変えられない。


正しく祈れば自分を変えられる。
外を見て祈るのではない。
内を見るのだ、自分の内を。


祈りとは、自分の内側を見ること。


誰にでもある、自我や自意識。
自分自身を確立するために必要なもの。
それがあるからこそ、葛藤や面倒が起こる。
自分の中で。


そう、世界は自分の内側で起こっている。


心の壁を取り払った状態で自分をさらけ出すと、
自我が解放され、ゆるむことがある。


自分の中の境界線を見つけることが本当にできたのなら、

その時こそ奇跡が起きるかもしれない。



自分にも他人にも判断を下さず、期待もしないことは、難しいものだとも思う。


それでも、それを手放した時に起こるVulnerabilityの奇跡をわたしは信じている。


私の期待が現実に合わないとき、
私に何が起こりますか?


自分自身を忘れないでいてください。

日々の音

大人のための絵のない絵本。 日常と非日常のはざまにあるふとした瞬間を音にする。 心を奏でていくと、世界はこんなにも美しくやさしい。 大人のあなたへ、ココロにまばたきをお届けします。

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