思うことがある。
対話とは何だろうか?と。
場を作れば作るほど、葛藤が起こる。
これでよかったんだろうか。
何ができたんだろうか。
この場に何を持ち込めたんだろうか。
対話の場に求められている、
「心理的安心安全の場」
というのがある。
「この場では、どんなことを話しても大丈夫だ」という場。
けれどもその安心感は、
「どんな葛藤や痛みとも直面せずに済みそうだ」
という安心感とは一線を画すように思う。
「やさしくて、あたたかくて、思いやりと共感にあふれた、楽しい空間」
のこと、でもない。
もちろん、そういう面もあるし、そういう場を求めている人もいて、それが正解の場もある。
わたしは対話がもたらすものを心から信じているけれど、
対話は実は恐ろしいものだとも思っている。
対話は参加する人に一定のリスクを迫るような、
非常にハードな側面もあるからだ。
それは当然ながら参加する人だけではない。
その場にあるわたし自身が、
「自分や他者と向き合うこと」を恐れ、拒否するのであれば、
わたしがその場にいる資格はないのだ。
引き受けるべき「正当な痛み」
対話の場には、「他者と出会う」ことで必然的に生じる、
引き受けるべき「正当な痛み」がある。
対話の過程で、ドロドロとした葛藤や混乱が生じる。
これまで話したことのなかった思いを吐露したり、
あえて避けていた課題を直視して話したり、
対話を通して自分自身の脆弱性をさらけ出し、
まざまざと自分を見せつけられる。
それが、引き受けるべき「正当な痛み」だ。
その一方で、
そのような対話の本質とは一切関係のない、
引き受けるべきではない「不当な暴力」や「不当な痛み」「恐れ」
というものもある。
他の参加者に対して人格否定するような参加者がいたり、
誰かが特定の人物に対して執着を示したり、
抑圧的な空気を場に感じて言葉を封じられてしまうようなケース
(高圧的な雰囲気に限らず、ひとつの意見だけが称賛される場も含む)
などだ。
そのような事態を防ぐために、
ファシリテーターが存在しているのだと思う。
ファシリテーターの役割は、
「参加者が一切なんの痛みも感じないで済む、やさしい無菌室のような、
無味無臭の空間を作ること」
ではない。
参加者が引き受けるべき痛みを引き受けることができるように、
全くもって必要ない不当な痛みを受けることのないように、
場をケアし続けること。
わたしが場を作るときに使っているPoints of You®︎というツールがある。
そのPoints of You®︎(特に公式講座の)ファシリテーターには、
いくつかの役割を果たす必要があるとされている。
その一つに、『As a container』と言うのがある。
「コンテイナーとして」
コンテナ、すなわち、
「内部にどのような葛藤や混沌が生まれたとしても変形しない堅い容器」
それを作り守るものとして。
・予断せず、判断せず、期待せず
・起こることすべてに価値があると受け取り
・語られたこと、語られていないことに耳を傾けて
・“真実の自分”でその場にある
と、わたしは理解している。
コンテンツがどれだけ素晴らしかろうとも、
結局は、そこにどう向き合い、どうコンテナを守り、
どう対話の場をケアするのか。
痛みや葛藤も含めた丸ごとの自分を受け取ると同時に、
どれだけ自分を手放せるのか。
それは、つまり覚悟でしかないのだと思う。
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