その横顔には何が写っているのでしょう。
ひとは「仮面」をつけて生きている
あえての場合もあれば、必要に迫られての時もある。もしかすると、被らされていることもあるかもしれません。
先日書いた
その続きといいますか、
この「自分らしさ」について、
さらに深く考える機会がありましたので、それについて。
こちらのワークショップの話を。
Points of You®創始者ヤーロン・ゴーランを招いてのイベントの話をいただいたのは6月。
ー存在の証明ー というワードはすぐに降りてきたのですが、それをどうカタチにしようか…??
素晴らしいワークを届けてくれたヤーロン 、
ヤーロンの言葉を的確に熱く伝えてくれた通訳のトパさん、
当日細やかな気配りでサポートしてくれたPOINTS OF YOU × VOYAGEの相棒ひさみん、
そして能とのコラボレーションを企画し、今回のイベントをカタチにしてくれたホラノコウスケマスタートレーナー。
そして参加者の皆さま。
2018年11月17日 そこには、
確かに、自身の存在の証明を手に入れたたくさんの顔がありました。
存在の証明
時にひとは自分を見失う。
いえ、見失っていることすら気づかないのかもしれません。ひとは、与えられた仮面を演じようとします。
何かを守るために。
素顔を曝け出して生きていくことは、
とても勇気のいることかもしれません。
自分の欲望に正直になることは、
とても怖いことかもしれません。
今回のワークショップのポージングは、
能「葵上」の六条御息所の告白の場面の謡でした。
人には業があります。
わたしには六条御息所の業が、
恐ろしさよりも、美しく思えてならないのです。
自分を見失うまでのその欲望に、
愛を請えないその立場に、
人の業に息づく哀しみに。
六条御息所は、小聖との対話により業を昇華させ、鬼の仮面を脱ぐ。
(対話ではなく対決なのかもしれませんが)
それは、御息所が己と向き合ったのだと思うのです。
自身を守るものだと思っていた仮面は、
自身を傷つける仮面だったのだと、
自ら手放したのだと思うのです。
ワークショップでも、参加者の方々は自分自身の過去・現在・未来へ、向き合われました。
いったい、誰の声を聴いたのでしょう?
いったい、どんな自分と話したのでしょう?
いったい、どんな顔を見たのでしょう?
いったい、そこにはどんな景色が広がっていたのでしょう?
いったい、何を見失っていたのでしょう?
一見、同じ真っ白な仮面をつけていても、
自身に向き合う姿を見るにつれ、
わたしには、それぞれの姿が、存在が、
自身を思い出すように、
立ち昇ってくるように感じました。
そこには、自身のチカラで手に入れた、
「体現された存在の証明」があったのだと思うのです。
「表現する存在の証明」へ
業を昇華させた六条御息所が、慈悲の姿へ自身を変えるように。
真っ白な仮面は、それぞれの手で、
個性豊かな色とりどりの花を咲かせていきました。
これまでにも、この時間の中にも、
どれだけの葛藤があったのでしょうか。
わたしにはそれを伺い知ることはできませんが、
「表現する存在の証明」の仮面は、
自身で選択した生き方、魅せ方、そのものだったのではないかと思います。
数人の方が、最後に名乗りを上げて
自身の「存在」を宣言されるのを、舞台裏で聴いていました。
その表情はわたしには見えなかったのですが、
その舞台に出ていく直前の、
なんとも言えない決意に満ちた清々しい横顔は、
わたしの宝物になりました。
自身の業の全てを飲み込んで、自身の存在を証明する姿は、なんとこんなにも美しく、力強く、愛しいものなのでしょう。
個が際立つごとに、その場の全てが繋がっていく。
ひとは与えられ、与えている。
「存在の証明」とは、「自分らしさ」とは、
何ものをも越えて何ものとも生きていくことではないのか?
そんな風に思えてなりません。
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